東京(n-1)公演 ハイナー・ミュラー作

〔12/12(金)〜14(土)麻布die pratze〕

画の描写

資料ページ

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目次
1、最新情報ページの予告記事
2、チラシ裏
3、ドスト会用紹介文(木戸・福井・武富)
5、上演写真

6、掲示板などにいただいた感想
7、HMWのその後〜HMW会議2004HP

武富健治、役者デビュー(か?) 12月中旬に参加の劇団が、ハイナー・ミュラーの『画の描写』を上演!

*これは当HPの最新情報ページに載せた記事です。

って、ハイナーミュラーって書いてもなかなかわからないですよね。ぼくも知らなかった。掲示板を観てくださっている方はご存知のことと思いますが、昨年から参加しているドストエーフスキイの会で知り合った方に誘われて、この春から、劇団の活動に参加しています。最初は「漫画と演劇のコラボ」とかなんとかいうことで、あくまで美術担当だったんですが、いつの間にかこの間の仮公演では鳥のお面をかぶって出演していました…。

この劇団は、東京(n−1)(トウキョウエヌ・マイ・ワン)と言って、演出の木戸佑兒さんが、ベテラン俳優から、演劇などかじってもいないいろいろな人物を引っ張ってきて、この春に結成した、年末のハイナー・ミュラー作『画の描写』上演のための劇団です。ハイナー・ミュラーというのは、80年代頃前衛演劇界では世界的に活躍した人物で、古典に増資が深いながらも、ひねくれたアグレッシブな表現活動を続けた人。いちばん有名なのは『ハムレット/マシーン』という作品です。

昨年からこの人物の再評価が演劇界では進んでいて、今年は2年目のハイナー・ミュラーフェスティバルが行われるのですが、我々の公演もその一環です。

なにしろ詳しくは、ここをご覧ください。 ハイナーミュラーザワールド

ぼくは、とりあえず本来の舞台美術やチラシなどの製作を担当しながらも、どうやら本公演でも、もしかするとまた役者として参加してしまうかもしれません(笑)。漫画そっちのけですが、なにしろ演劇の場に参加して場の雰囲気を知るということは、もちろん後々漫画のネタに使う意味で、昔から欲していたことでした。どうもこれまで縁がなくて来てしまったのですが、ちょうどこの仕切りなおしの充電期間にそういう話に出会ったのも、これは運命かと。ネタとして以上に、芸術家として、これまでどうしても身に付け得なかったいくつかの要素を、今、獰猛に、貪欲に取り入れております。ぴたっと年明けからは漫画に一気にとりかかるので、ぼくの漫画を応援してくださっている方はもう少しお待ち下さい!

上演は、上記のHPに詳しく載っていますが、ここにも書いておきます。興味のある方は是非いらして下さい。チケットは、僕宛にメールで!

東京(n−1) 『画の描写』公演  場所 麻布die pratze

12/12(金)―14(日)

開演時間=12日19:15、 13日15:15と19:15、 14日16:15  *12日アフタートーク有り

料金=前売り \2300(学生\2000) 当日 \2800(学生\2500) ですが、ぼくを通してくだされば安くします。数日前にメールを下さい。

資料ページに仮公演時の写真を載せておきます。(03.9.27)

03.9.7

池袋の某公園にて仮公演時撮影

(大きな写真は、資料ページにあります)

チラシ裏面
 『画の描写』とは・・・

この「画の描写」というテキストは、ハイナー・ミュラーがブルガリアの女子中学生の舞台スケッチにインスパイアーされて生まれた戯曲です。戯曲といっても、止め処もない文章が散文形式で連なり、近代の戯曲の常識からはおよそかけ離れています。ハイナー・ミュラーはテキストの最後に次のように付記しています。「このテキストは死のかなたの風景を描写している。筋は任意である、つながりは過去であり、死滅した劇的構造のなかの記憶の爆発なのだから。」この風景こそ、「画の描写」を上演するに当たって途方にくれる私たちが目にする光景です。このテキストをなんとか再現しようと躍起になればなるほど、テキストは私たちに背を向けます。キャンパスどころか、イーゼルすら消滅した「死のかなたの風景」から立ち現れてくるものが、この「画の描写」の主題なのですから、たんにイメージを再現したところでせいぜいテキストに嘲弄されるのが落ちでしょう。    

世界では、ずっと昔から戦争、テロをはじめ、日常的に殺人という愚挙が繰り返されています。一方、つねに私たちは、他人の他愛のない言葉にまとめられ、あるいは他愛のない言葉で他人をひとまとめにして、なんら自覚もないまま、打ち負かされ、打ち負かしている現実があります。「画の描写」というテキストを上演することは、戦争や殺人で死んでいった人々の無念さはもちろんのこと、顧みられることもなく葬り去られた名もなき人々の思いを、いかに叶えてやるかということ、身近なところに目を移すなら、いまの私たちが、テレビ、マスコミ等の情報の渦に投げ込まれ、そうでなくても他人との関係のなかで、翻弄され、いとも簡単に括られている現実に、個という柔弱なところからどう抵抗するか、どう応答するかということだと思います。そして、そのことはそのまま私たちが時代のなかで、いつのまにか支配する側に利用されていること、それに気づかないことへの自戒でもあるわけです。そうだからこそ、その振幅を引き受けること、つまり、生きていくうえで否応なくついてまわる抑圧と解放を巡る自己矛盾に目を向けなければ、たんに演技したところで『画の描写』は演じ切れないこと。「求められているのは:進行の中の裂け目、同一のものの再来の中の他者、言葉なきテキストのなかの吃り、永遠のなかの穴、ひょっとしたら救済となるかもしれない失敗」というテキストにある言葉のように、自己と敵対関係に入ることを迫ってくるのが「画の描写」というテキストなのです。

「俳優は役になる必要はない」とミュラーが言うときは、「芸術を創造するとは、まさしく自己との対話をなす」ことを念頭においているのです。私たちに求められているのは、自己の中に自覚なきままに葬られている「歴史の天使」を発見すること、自己の中に隠れている他者の痕跡を探すこと、それが自己の対話ということなのです。・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・俺、毎晩うなされる、汗びっしょりかいて(さんざん悪いことしたからでしょ)そうだな・・・夢の中って、自分が出て来るだろう、自分の姿がみえないか。その自分をもう一人の自分が見ているんだ、夢って自分が作るんだよなぁ・・自分で作っておきながら、自由にならない、毎晩、夢に苦しめられて・・・・・誰か知らないやつが俺を苦しめるんだ(そういうの、無意識っていうんじゃないの)じゃ、無意識って自分なのか、他人なのか(知らないわよ)俺って、誰なんだ、いつも誰かに監視されてる、誰かに操られている。どうすりゃいいんだ、(だから、知らないって言ってるでしょ。心理学者じゃないんだから)だからさぁ、・・・・・・おまえ、おめかしして、これからどこへ行くんだ、(おじさんには関係ないよ)なぁ、俺の手、握ってくれよ(いやよ)手くらい、いいだろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(木戸佑兒)

求められているのは:進行の中の裂け目、同一のものの再来の中の他者、

言葉なきテキストのなかの吃り、永遠のなかの穴、

                     ひょっとしたら救済となるかもしれない失敗

 東京(n−1)【とうきょうエヌマイワン】 プロフィール

俳優、ミュージシャン、漫画家、小説家、能の研究者、映画学校生徒、ボイスヒーラー、もちろん会社員等さまざまなジャンルのものが集まり、今年4月に発足。寄り合い所帯の、単なる加算的な発想を排し、むしろ欠損の不安を創造のばねに、日々騒々しく何かを求め、あるときは街頭に出て自らの身体を実験台とし、そしていま、産みの苦しみを味わっている。

     東京(n−1)
      『画の描写』
   演出・構成     木戸 佑兒
   出演         石川 靖子
             小田 幸子
               清野 元章
               武富 健治
             山田  零
   音楽         角田 憲亮
   映像        鈴木 秀敏
   照明        椎名  正
   美術         武富 健治
   
   制作        古賀 良子
               和田 裕子
   アドバイザー    奥井奈緒子
              小嶋 K子
            福井 勝也
              和田 義光 
協力  和田スタジオ
主宰者 「生活のなかから演劇をつくる」
NPO法人U企画
麻布die pratze

港区東麻布1-26-6-2F 

03-5545-1385(水曜除く18:00〜23:00)

大江戸線 赤羽橋駅 赤羽橋口徒歩0分 

三田線 芝公園駅 A4出口徒歩6分

南北線 麻布十番駅 3番出口徒歩8分 

日比谷線 神谷町駅 2番出口徒歩10分

ハイナー・ミュラー/ザ・ワールド参加作品 

東京(n−1)公演 『画の描写』 

                   〔12/12(金)〜14(土)麻布die pratze〕

*この紹介文は、ドストエーフスキイの会のメンバーの方たちに配られたものに、多少の変更を加えたものです。

「画の描写」を上演するに当たって

《語り手というアポリアを巡って》

                            東京(n−1)演出 木戸佑兒

どこからともなく声が聞こえる。その声が私を不安の底に突き落とす。その声の前で私は身をすくめる。私に命じるその声はどこからやってくるのか。いや、その声こそ私の中からやってきて私の行く手を邪魔する。私はその声に押し込められて一線を踏み越えられない。もしその声を振り切って踏み越えたなら、私は消えてなくなるのだろうか。考えただけでも恐い。一方で、違う声が私にささやく。このままじゃダメだ、お前は外へ出たいんだろっ、と。そして、「邯鄲の歩み」のように、私は私を見失う。

私はいま恋している。デートに行く前、鏡の前で髪を梳かし、服を合わせ、私の見た目をよく吟味する。そのとき私はすでに私ではない。それじゃダメだと私がいうとき、私は彼女になりかわって鏡の中の私を見ている。私はいつのまにか私の席を彼女に譲っている。私とは彼女?恋愛中の私はいつも彼女の声に支配されている。恋愛とは彼女に支配される不自由さとそこから逃れて彼女を支配したい願望から成り立っている。しかし、彼女を完全に支配の掌中に収めたとき、あの激しかった恋も終わりを告げる。ここに恋愛の矛盾がある。

 身体の感覚は場面によって変容する。同じ「約束する」という言葉であっても、恋人に言うのと、家族に言うのでは、その身体感覚は全く異なる。というのは、身体が他者との関係に依存していることを示している。つまり身体は物理的には「私」の所有物でありながら、同時に精神的には他人との共有物でもあるということ、いきおい私がイコール身体であると言い切れないことは、医療現場に目を移すならば、一目瞭然である。いまや臓器から遺伝子にいたるまでバラバラに切り離し、生体部品として交換している現実を目の当たりにして、身体は交換可能な私の所有物に過ぎないことを実感せざるを得ない。身体がなければ私は存在しないのは当然だが、状況において、身が縮んだり、身が余ったりする身体の感覚は、いうなれば、精神としての身体が他者関係の結節点に位置することの証でもあるのだ。

文学作品における語り手もこの結節点から析出される。「非人称的なものが顕現することによってはじめて、私は書くことができるようになる」とカフカがいうとき、語り手の性格がはじめて明らかにされた。私が非人称的なものに到達したとき、私ははじめて語り手として機能できるのである。「画の描写」というテキストは、ハイナー・ミュラーが女学生の描いた舞台スケッチにインスパイアーされ、描いた上演テキストである。テキストは散文詩のような文体で書かれ従来の戯曲の形式とは全く異なっているが、このテキストの上演不可能性はその形式にあるのではなく、このテキストにおける語り手の存在である。

 テキストの中に次のような一節がある。「この画について問うているのは誰、あるいはなんのか、鏡の中に住む、ダンスの足取りの男は私ではないのか、私の墓は男の顔、私は首に傷をもち、二つに分けられた鳥を右手と左手にもち、口を血だらけにした女、私はその嘴のエクリチュ−ルで殺人者に夜の道を示す鳥、私は凍りついた嵐ではないのか」画を描写している語り手が自分自身に向けて問い掛けている。その問い掛けは「私は嘘をついてる」というパラドックスから生じる「私」の不在という事態のように、読者に不可能なものを突きつける。このテキストを書いている存在がそのテキスト内の存在かもしれないと無理なことをいっている。つまり、ここに登場する語り手の存在は「私」の存在のように自明のものとして暗黙のうちに了解されている事項を逆照射することによって、その存在の不可能性を炙り出しているのだ。

 語り手は「私」と同様に一つの矛盾として構成される。太宰治が「生きている不安が文章を紡ぎ出す」というのも頷ける。バフチンのポリフォニー論を待つまでもなく、テキストを書いている作者はテキストそのものを自分自身として描く。たとえその人物が脇役であろうが、端役であろうが、あるいは事物であろうが、描くすべてが作者でなければテキストを書くことはできない。ここに矛盾を見る。はじめに作者がいてその人物や事物に感情移入するのではなく、書かかれたものによって作者が構成されるからである。だからこそ、前述したカフカの言葉が説得力をもつのだし、太宰の不安が「私」というものが他者関係の中からしか見出せない存在論的不安として、ひたすら小説を書くことに駆り立てるのも頷けるのだ。この観点に立つなら、語り手が日常的自我の一形態としての作者と一線を画するのはいうまでもない。「私とは誰?」という哲学的なアポリアは文学作品の語り手の問題として捉えなおされたとき、よりスキャンダラスなものとして姿をあらわすのである。

 語り手が語っているテキストの中に登場すること、あるいは語っているそのものを自分自身だとテキストの中で言うことは、語り手という存在をまさに「私は嘘をついている」というパラドックスの深淵に突き落とす行為である。つまり、ことさら問わないかぎりその存在を疑わなかったものが「何者なのか」と問われるやいなや、矛盾に突き当たらざるを得ない自我問題をより先鋭化したものとして「語り手」が浮き彫りにされるということなのだ。「画の描写」における語り手の問題はさらに過酷な要求を突きつけてくる。この不可能な存在である語り手を劇構造の中でどのように位置づけるのかという問題をあからさまに迫ってくるからである。もちろん、ソートン・ワイルダーの「わが町」で劇中にはじめて語り手が登場したときに演劇界に与えた衝撃は大きいものだったし、メタ・演劇という形で、テネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」においても受け継がれ、現在においても、それは確固とした市民権を持った形式だということを知らないわけではない。しかし、この「画の描写」においての語り手の存在は、たんにメタ・演劇に収まらないものがある。いま確かに言えることは、「画の描写」が劇構造のなかで要請している語り手はこの劇を観にきた「観客」以外何者でないということだけである。 

ハイナー・ミュラーとの遭遇/接近

「ドストエ−フスキイの会」の皆さんへのメッセ−ジ

                       東京(n−1)アドバイザー 福井勝也

読書会の論客の一人でもある木戸氏が演劇にコミットしていることはしばらく前から知っていた。そして今年になって、彼にオルグ(?)されたやはり会のメンバーの武富氏が年末の公演に向けて演劇に参加していることもいつからか承知していた。しかしその中身が、東独出身のハイナー・ミュラー(1929-1995)という劇作家を採り上げての東京フェスティバルへの参加であって、「画の描写」という難解なテキストを題材にしていることを知ったのはほんの数ヶ月前のことであった。

僕が今回「東京n−1」という木戸氏主催の劇団と遭遇したのは9月初め、池袋でのゲリラ的街頭公演の野次馬的見物であった。この時点では公演の構成台本も未完成で、それぞれの演技者が実験的パフォーマンスを白昼に曝すことで次の段階へ飛躍してゆく一過程としてあった。劇全体がどのように完成を遂げるのか未だ不明の時期、「役者以前」のパフォ−マ−の身体表現には妙な生々しさと傷ましさが孕まれていた。僕は傍観者として偶然に遭遇したのであったが、やがてその「場」の不思議な喚起力に自分自身が揺さぶられ挑発されていくのを感じた。もしかするとそれは、駅前広場での野外劇が始まって間もなく警官の中止命令によって進行が中断させられた時、警官の声に呼応した某演技者(=「鳥」)の偶発的な叫びに誘発させられた感情であったかもしれない。あるいは、前夜から読んでいた『新潮』連載の四方田犬彦氏の「ハイスクール1968」という作品世界にコールバックさせられていたためかもしれない。いずれにしても、かつて身に覚えのある、しかしそれは確実に抑圧されてしまっていた何ものかが僕の内部に甦ってきていた。それは快感と苦痛が綯い交ぜになった変になつかしい気分を伴なった。

そんな極私的な感情はともかく、それから今までの数ヶ月の間、演技者に混じって「テキスト」

の読み合わせやフェスティバル幕開けのシンポジウム(演劇含む)に参加させてもらいながら、本番に向けての「稽古」にも気まぐれに付き合わせていただいて来ている。

この間にハイナー・ミュラーという劇作家について若干の勉強をさせていただいた。ここで一点この作家について僕が触れるとすれば、彼のお気に入りの言葉として紹介されている「演劇とは死者の召還である」という表現だ。「ハムレットマシーン」という文字通り画期的な演劇によって、ポストモダン・ポストドラマの時代を刻印した劇作家の頭脳に去来し続けた死者達の群、それはミュラーの生きた大量殺戮の時代(=「現代」)が現出させた歴史の亡霊者群であった。そして、この死者達は近代的思考の無効性を呪詛する存在として生者達(=生き残った者達)のすぐ横に影として在る。この生者と死者の境界域にあって、演劇の可能性(=不可能性)を追求したのがハイナー・ミュラーではなかったか。その時、ギリシャ悲劇や日本の「能」自体がその本質的契機としていた「死者」が重要な意味を持ってミュラーによみがえって来たのかも知れない。それは、ブラックユーモア的表現でしかない「ポストヒストリー」と言われる現代に「歴史」を再導入する切迫した現代的試みとして実現されたのではないか。

「世界は記述されつくされ もはや文学のための場所はない」ともミュラーは語っている。常日頃ドストエフスキーの文学に親しんでいる私たちにとって、ミュラーの存在は果たしてどんな

意味を持つのか?「ハムレットマシーン」という作品のなかに<ラスコーリニコフ>と言う言葉を散りばめたミュラー。癌に侵されての手術後に<バーデンバーデン>で療養しつつ、2カ月後に逝去(1995.12/30)したミュラー。過酷な現代史と対峙しながらポスト・ドラマ(モダン)の創作を続けたミュラーの存在と向かい合うこと、それ自体が現代を生きる意味に溢れていると思えるのだ。今回の演劇フェスティバルの参加作品、とりわけ、ドスト会のメンバーの係わる「東京n-1」の演劇に拘りながらもう少し考えてみたい。時間と興味のある方は是非声を掛けていただきたい。 (2003.11.20)

ユリイカにおけるハイナー・ミュラー

                        東京(n−1)俳優・美術 武富健治

ハイナー・ミュラーに関しては、この紙面でも、既に他の方が様々な切り口で紹介をされていると思いますので、入門者代表のぼくとしましては、加えて書くことも見当たりません。

ここでは、彼について書かれている雑誌(といってもユリイカだけですが)を2冊、簡単に紹介しておくことにしました。興味のある方がそれをあたっていただけるといいかと望んでのことでもありますし、また、ハイナー・ミュラーがどのあたりの人に、どの程度注目されていたかというのが、なんとなくわかっていただけるかも知れないと思うからでもあります。

ユリイカ 1996.5増頁特集『ハイナーミュラー〜ハイパーテクストとしての演劇』

村上春樹、プルースト、アントナン・アルトー、ベケット、永井荷風、太宰 治、バタイユ…ここ10数年の間に、ユリイカの増頁特集に個人で取り上げられた作家や芸術家には、このような人たちがいますが、その中に、ハイナー・ミュラーも含まれております。

本人のテキストとしては、「ゲルマニア3」「エレベーターの男」「ロバートウィルソンへの手紙」の他、インタビュー「真実、かすかな、そして我慢のならぬ」を収録。

日本人では、谷川道子、鈴木忠志、岸田理生、岡本章、川村毅、鈴木絢士、内野儀、西村龍一、多和田葉子、堀真理子、岩淵達治、太田省吾、可能涼介、中村雄二郎、巻上公一、明石政紀、市川明、河合純枝、石光泰夫、山本耀司、木下健一、そして今回のフェスティバルの主催者である西堂行人の各氏が寄稿しています。

外国の方では、R・ウィルソン、J・ジュルドゥイユ、S・ノルディ、T・レーマン、G・シュルツ、G・リューレ、H・ゲッペルス。

ユリイカ 1985・11増頁特集『世界の演劇人は語る』

まずこの号の特集頁の頭が、ハイナー・ミュラーの『エウロパ・トランジット』というテキストで飾られています。それに「ヨーロッパ劇場とクライスト」という詳細な解説をつけているのが佐伯隆幸氏。他には、岩淵達治氏によるH・Mの代表作『ハムレット/マシーン』の全訳と、『ハイナー・ミュラーと現代ドイツ演劇』という評論も載っています。

 ハイナー・ミュラー以外の記事にどんなものがあるかというと、例えばピーター・ブルック演出「マハーバーラタ」に関するものなどもありますがそれ以外は、例えばアラバールが「ブレヒト、アルトー、ベケット」などという歴史の流れを振り返りながら現代演劇を語る、というように、過去の人間の名を挙げて、当時活躍していた本人がインタビュー形式で語っている記事はいくつかあるものの、現在活躍している演劇人個人を取り上げて書かれたた記事はありません。まあ、そのくらい、現代演劇の世界的展望の中ではハイナー・ミュラーが数少ない注目株にあたっていたようである、という印象を抱いていただけるでしょうか。

このような記事で、少しでも関心を持っていただけると幸いです。

チラシ表画像
高画像版

上演写真
劇場(麻布die pratze)1/50模型写真(武富作・修正版)

*実際にはさらに床の絨毯による色分けがなくなり、中央スリットは7本に増やされた。椅子も使用されなかった。下の写真では明らかでないが、2階下手側の小部屋は生かされた。

 SCENE 1 コラボレーション1

アルケスティス「あなたをお産みの父上も母上も、立派にもう、お死になってもいいお齢、
(ギリシア悲劇エウリピデス『アルケスティス』より) 

*HMのテキスト『画の描写』は『アルケスティス』の彩色補筆である。

*太字は実際の上演のセリフに使用した部分

 SCENE 1 コラボレーション1

ペレス「御身は、恥知らずにも死ぬまいとてもがきおって、定められた天の理法を曲げくろめて、命をつなぎ止めたのだ。この女を死なせてからに。それをこのわしが気弱、腑抜けだなどと言いくさって、女にも劣ったこの上もない腰抜け武士が。コレはここにいる大層立派な若者の身代わりに死んだものだ。いかにも利口な手だてを見つけたものだな、死なずにかませておくという。もしその折りに居合わせた家内を自分の身代わりに死ぬよう説いてすかせるなら。それでおいて身内の者がもしそのとおりするのが厭などと言うと、罵りくさる。自分が卑怯者のくせにして、黙っておろう。」
(ギリシア悲劇エウリピデス『アルケスティス』より) 

*HMのテキスト『画の描写』は『アルケスティス』の彩色補筆である。

*太字は実際の上演のセリフに使用した部分

 SCENE 2 コラボレーション3 

「男が椅子の上にいて、女がその上に股がり、男の一部は女の膣の中」「女はさらに、男を訪ねるために跳ね除けてきた墓場の土と地下水の重みを受けている、なめし皮のコートはその地下水でびしょぬれだ」「女の動きははじめはおだやかな揺れだが、次第に激しい馬乗りになり、ついにオーガスムに達して男の背中を椅子の背もたれに押し付け」「背もたれがめりめりと壊れる、女の背中も」「テーブルの縁にあたってワイングラスが倒れ、果物の重みを受けたゴブレットは横にずれはじめる、そして女が前に身を投げ、両腕で男を抱きしめ、男もなめし皮のコートの下の女を抱き」 「男が女の、女が男の首を噛んだ時、ゴブレットはテーブルの縁のきわで辛うじて静止したのだ、あるいは女が椅子の上にいて、男が女の後ろに立ち」「両手を女の首にまわして親指と親指を合わせ」「はじめは戯れのつもりで中指は触れていただけだったのだが、女が椅子の背もたれに身をそらし、指の爪で男の腕をひっかき、女の首と額の血管が浮きでて、頭が充血し」「顔は紫色になり、両足が痙攣して」「テーブルの板をけりあげた時、ワイングラスが倒れ、ゴブレットはずれはじめ、そのとき絞殺者が親指と親指、指と指とをくっつけて輪を閉じて、ついに女の両手が男の腕からしだれおち、喉頭があるいは頚椎がぽきっと」「かすかな音を立てて」「その仕事の終わりを示す、おそらくはそのとき死んだ重みも加わる、男が両手を離したとき、椅子の背もたれが後に、あるいは女が前に倒れ、紫色の顔がワイングラスにぶつかり、そこからワインなのか血なのか、どすぐろい液体が地面まで流れるのだ」

 SCENE 3 Tableau 5

「この絞殺者の弓なりに波打つ指が、平らな山脈に鋼鉄の網をかけたのだとしたら、その山脈の白い山の頂きだけがまだ覆われずに突き出しているのだが、それは地中にいる死者たちの散歩で起こる落石への防御だ、その散歩が、この画が密かに意図しているこの惑星の秘密の鼓動であり、それがおそらくはしばらくは続くだろうという見通しの上での防御だ、墓場はそのうち成長して、敷居にいるこの殺人容疑者のかすかな重みで、木のなかの鳥がすばやく消化されて壁に剥製となって掛けられる重みも加わって、限界に達してしまう」

 SCENE 3 Tableau 6 
  (ここは破壊と結合の場面)

「そのワイヤーの骨組は実は骨に先行する神経からできていて、あるいは目にみえない根毛の塊のような骨髄の蜘蛛の巣状の網の目からできていて、それがバンガロー型の家を突き破っていて、家の内部はすでに天井までそれに覆われているのだ、あるいは椅子に巻きついたワイヤーも、あるいは山脈の裾野にかけられた網の目もそうなのだ」

SCENE 4 コラボレーション6

「あなたに言ったじゃないの戻って来ちゃいけないって死は死」

 SCENE 4 コラボレーション6

「それともすべてはまったく違っていて、鋼鉄の網は山脈が具象的に見えるのを避けるためにへたなぼかしを加えた乱雑な絵筆のタッチ、もしかしたらこの構成の恣意はひとつのプランに従っているのかもしれない、前景の木は根が切りとられて盆の上に載っていて、背景の別種の木々は特別長くのびた茸で、樹木など知らない気候帯の植物、だとしたら、あのコンクリートブロックはどうやってこの風景の中にやって来たのだろう、輸送や車の跡はない、あなたに言ったじゃないの戻って来ちゃいけないって死は死、引きづった跡もない、地から湧いたか、空から降ったか、それとも死者たちのみが呼吸する空気の中から空と名付けられた向こう側の一点で固定されたグライフの腕で降りてきたのか、山脈は美術館のもので、本来の場所にあると天使たちの低空飛行の邪魔になるから地中で保管されていて、その地下の展示場から貸し出されたものではないか、この画は実験用の指示、デッサンの粗雑さは実験用の動物である鳥や男や女への軽視の表れ、日々の殺人という血のポンプ、男は鳥と女を、女は鳥と男を、鳥は女と男を殺し、この惑星に燃料を供給する、血は惑星の紙のような生に色をつけるインク、その空も肉の復活で硫黄病にかかっている」

「求められているのは」

掲示板やメールにいただいた感想

*上演全体に感関する部分は濃赤色で示してあります。
*この感想の前後の書き込みは、自由掲示板過去ログ2003.12月後半ページにあります。

いかったっす 投稿者:n_kuma  投稿日:12月16日(火)22時19分19秒

お疲れさまでした、主人。また、楽しい演劇を見せてくれてありがとうございました。主人の発声がとても良かったですよ。「あっ」のお兄さんも、左右の手の連動が良くて良かったです。ボクシングでもしている人?
わたしは、わからないものはほとんど楽しいんです。
「画の描写」よかったっす。テクストが抜群にいいんですね、たぶん。たぶんというのは、どこまでがテクストで、どこからが演出挿入されたものかわからないから。私が演劇を今まで見たことないから。
画にむきあうと、画をつかもうとして、際限なく言葉が生み出され続けることがあります。際限なく出るのは、けして言葉では画をつかみきることが出来ないからで、画と生み出され続ける言葉には、本質的に乖離があるからでしょう。テクストは、この乖離を含んで提示されていると思いました。一方、書かれた言葉としてのテクストと俳優によって演じられる言葉にも乖離があって、おそらく一般的には演劇の努力の大きな部分は、この乖離を消滅さえようというところに注がれるのかと考えました。テクストの深い意味を表現するという方向性ですね。木戸さんの演出した「画の描写」にはこの努力が見られませんでした。その結果、演劇の効果が「画」そのものに回帰したように思いました。図式的にいえば、1×−1(画に対する言葉の乖離)×−1(言葉に対する演劇の乖離)=1(画)ということでしょうか。演じられる演劇空間とはまったく別に「画」そのものが、「画」に向かい言葉を探しあぐねている人を通し、その言葉を演じる人をとおして明瞭にイメージできました。このことが、私にはほんとに驚きでした。いやほんとにぶったまげてしまったのでした。
役者さんの言葉を借りれば、気持ちよく演じてた、ということでしたが、あえて三層間の意味的統一を求めなかったことによって、つまり、深い解釈、深読みをしないことによって、このテキストの持つ意図(あくまでも私の受け取った印象)を実現してしまったのではないでしょうか。気持ちよく演じれば、このような効果を生み出すテキストである、ということなのではないでしょうか?

初日の司会の方のいわれていた乖離の問題、乖離を巡る劇団側と司会者の乖離も、このことに帰着するのでは、と思いました。役者さんは気持ちよく演じた、結果として乖離が生じた。司会者はそれに対して批評しようとした。だけど役者はそんなことは意図していなかった。

最後に、死の描写があるから死を描いているのではなく、「画」に言葉で対峙するということのうちに、「死」に言葉で対峙しようとする表現者の姿を見ているのだと思いました。

描写の描写 投稿者:有容赦  投稿日:12月16日(火)13時10分59秒

胡蝶社主人。さん&Cogito−kさん:

お疲れ様でした

はっきり言って、殆ど意味がわかんなかったのですが、とにかく、胡蝶社主人。さん自身は、お世辞ではなく、カッコイイなあ、と思っておおいに感心しました。
だいたい、大変失礼ながら、もっと「ちょい役」なのかと思ってましたよ。
あんなに露出度の高い役だとは思わなかった。
誰が主役とかいう意味づけ自体が無意味かも知れませんが、
私の独断と偏見によれば、一番、重要な役だったようにお見受けしました。
Y子さん、アベサダさんなど、目の肥えたご婦人連からも、
「武富さん、なかなか素敵でしたね〜♪」という、
異性としてのお言葉が(と勝手に解釈する私……)洩れ出ていましたよ。
有容赦としては、顔立ちが良かったのはともかく、演技的には、
特に目線がぴたっとして動かないのが気持ち良かった、と思ったのですが、
久里子さんの話ですと、あれは、かなり意識して練習されたんだそうですね。
納得しました。
でも、またまた誠に失礼ですが、確かに、「悲しそうな犬」っていうのは、
言われて見ると、実に私のイメージにぴったり来ます。
わたし的には、それって、別にぜんぜん悪いことではないのですがね。

あと、Y子さんは、声が大きくてよかったと言っていました。
確かに、普段の主人さんからは想像のつかない大きな声が出ていたし、
そのわりに、ちゃんとはきはきと台詞もほぼ全て聞き取れました
もっとも、ときどき、
「あれ、さっきと同じことを繰り返したけど、合ってるのかな?」
と疑問に思ったところはありましたが、、、
「間違ったんだろう」という
確信ももてなかったのは、脚本の理解困難性のおかげもありました。

とにかく、主人さんの台詞回しは総じて大変よかったと思います。
一方、正直言って、歌舞伎だか、狂言だかの節回しをつけた
一人の女優さんの台詞まわしなどは、私には、
有料で人に見せる芸として如何にも背伸びをした中途半端な感じがして、
「みっともないな」というイメージが先行してしまい、
最大限控えめに言っても、ほぼ全く楽しむことができなかった部分です。
ああいう、内容的に既に十分に狂気じみた本は、
読み方自体に何かを籠めようとすると却って仇になるというか、
論文でも朗読するかのように粛々と、
いわば、楷書で書くように余分な感情を抑えて読む方が、
私はずっと好きだな、と思いました。
ご本人が見てたら、申し訳ないですが、、、ごめんなさい、全くの素人感想です。

あと、これも、他の人も異口同音に言っていたことですが、
あの座(すわ)って一服、の場面がなんともいえず良かったです。
私はなぜか、脈絡もなく、『白痴』のラストの
ロゴージンとムイシュキンの「通夜」の場面を連想してしまったのでした。

学生時代以来、久々に、アングラというのか、
「これが芝居だ、わかんねえなら、文句を言うな」という、
とんがった芝居を見させられて、
全くわけわかんないけど、まあ、ああいうのも、たまには良いよな、
などと思ってしまった次第です。
よいきっかけを与えてくれて、有難うございました。

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