| 1、最新情報ページの予告記事 |
| 2、チラシ裏 |
| 3、ドスト会用紹介文(木戸・福井・武富) |
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4、チラシ表(画像)
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| 5、上演写真 |
| 6、掲示板などにいただいた感想 |
| 7、HMWのその後〜HMW会議2004HP |
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って、ハイナーミュラーって書いてもなかなかわからないですよね。ぼくも知らなかった。掲示板を観てくださっている方はご存知のことと思いますが、昨年から参加しているドストエーフスキイの会で知り合った方に誘われて、この春から、劇団の活動に参加しています。最初は「漫画と演劇のコラボ」とかなんとかいうことで、あくまで美術担当だったんですが、いつの間にかこの間の仮公演では鳥のお面をかぶって出演していました…。 この劇団は、東京(n−1)(トウキョウエヌ・マイ・ワン)と言って、演出の木戸佑兒さんが、ベテラン俳優から、演劇などかじってもいないいろいろな人物を引っ張ってきて、この春に結成した、年末のハイナー・ミュラー作『画の描写』上演のための劇団です。ハイナー・ミュラーというのは、80年代頃前衛演劇界では世界的に活躍した人物で、古典に増資が深いながらも、ひねくれたアグレッシブな表現活動を続けた人。いちばん有名なのは『ハムレット/マシーン』という作品です。 昨年からこの人物の再評価が演劇界では進んでいて、今年は2年目のハイナー・ミュラーフェスティバルが行われるのですが、我々の公演もその一環です。 なにしろ詳しくは、ここをご覧ください。 ハイナーミュラーザワールド ぼくは、とりあえず本来の舞台美術やチラシなどの製作を担当しながらも、どうやら本公演でも、もしかするとまた役者として参加してしまうかもしれません(笑)。漫画そっちのけですが、なにしろ演劇の場に参加して場の雰囲気を知るということは、もちろん後々漫画のネタに使う意味で、昔から欲していたことでした。どうもこれまで縁がなくて来てしまったのですが、ちょうどこの仕切りなおしの充電期間にそういう話に出会ったのも、これは運命かと。ネタとして以上に、芸術家として、これまでどうしても身に付け得なかったいくつかの要素を、今、獰猛に、貪欲に取り入れております。ぴたっと年明けからは漫画に一気にとりかかるので、ぼくの漫画を応援してくださっている方はもう少しお待ち下さい! 上演は、上記のHPに詳しく載っていますが、ここにも書いておきます。興味のある方は是非いらして下さい。チケットは、僕宛にメールで! ■東京(n−1) 『画の描写』公演 場所 麻布die pratze 12/12(金)―14(日) 開演時間=12日19:15、 13日15:15と19:15、 14日16:15 *12日アフタートーク有り 料金=前売り \2300(学生\2000) 当日 \2800(学生\2500) ですが、ぼくを通してくだされば安くします。数日前にメールを下さい。 資料ページに仮公演時の写真を載せておきます。(03.9.27) |
03.9.7 池袋の某公園にて仮公演時撮影 (大きな写真は、資料ページにあります) |
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この「画の描写」というテキストは、ハイナー・ミュラーがブルガリアの女子中学生の舞台スケッチにインスパイアーされて生まれた戯曲です。戯曲といっても、止め処もない文章が散文形式で連なり、近代の戯曲の常識からはおよそかけ離れています。ハイナー・ミュラーはテキストの最後に次のように付記しています。「このテキストは死のかなたの風景を描写している。筋は任意である、つながりは過去であり、死滅した劇的構造のなかの記憶の爆発なのだから。」この風景こそ、「画の描写」を上演するに当たって途方にくれる私たちが目にする光景です。このテキストをなんとか再現しようと躍起になればなるほど、テキストは私たちに背を向けます。キャンパスどころか、イーゼルすら消滅した「死のかなたの風景」から立ち現れてくるものが、この「画の描写」の主題なのですから、たんにイメージを再現したところでせいぜいテキストに嘲弄されるのが落ちでしょう。 世界では、ずっと昔から戦争、テロをはじめ、日常的に殺人という愚挙が繰り返されています。一方、つねに私たちは、他人の他愛のない言葉にまとめられ、あるいは他愛のない言葉で他人をひとまとめにして、なんら自覚もないまま、打ち負かされ、打ち負かしている現実があります。「画の描写」というテキストを上演することは、戦争や殺人で死んでいった人々の無念さはもちろんのこと、顧みられることもなく葬り去られた名もなき人々の思いを、いかに叶えてやるかということ、身近なところに目を移すなら、いまの私たちが、テレビ、マスコミ等の情報の渦に投げ込まれ、そうでなくても他人との関係のなかで、翻弄され、いとも簡単に括られている現実に、個という柔弱なところからどう抵抗するか、どう応答するかということだと思います。そして、そのことはそのまま私たちが時代のなかで、いつのまにか支配する側に利用されていること、それに気づかないことへの自戒でもあるわけです。そうだからこそ、その振幅を引き受けること、つまり、生きていくうえで否応なくついてまわる抑圧と解放を巡る自己矛盾に目を向けなければ、たんに演技したところで『画の描写』は演じ切れないこと。「求められているのは:進行の中の裂け目、同一のものの再来の中の他者、言葉なきテキストのなかの吃り、永遠のなかの穴、ひょっとしたら救済となるかもしれない失敗」というテキストにある言葉のように、自己と敵対関係に入ることを迫ってくるのが「画の描写」というテキストなのです。 「俳優は役になる必要はない」とミュラーが言うときは、「芸術を創造するとは、まさしく自己との対話をなす」ことを念頭においているのです。私たちに求められているのは、自己の中に自覚なきままに葬られている「歴史の天使」を発見すること、自己の中に隠れている他者の痕跡を探すこと、それが自己の対話ということなのです。・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・俺、毎晩うなされる、汗びっしょりかいて(さんざん悪いことしたからでしょ)そうだな・・・夢の中って、自分が出て来るだろう、自分の姿がみえないか。その自分をもう一人の自分が見ているんだ、夢って自分が作るんだよなぁ・・自分で作っておきながら、自由にならない、毎晩、夢に苦しめられて・・・・・誰か知らないやつが俺を苦しめるんだ(そういうの、無意識っていうんじゃないの)じゃ、無意識って自分なのか、他人なのか(知らないわよ)俺って、誰なんだ、いつも誰かに監視されてる、誰かに操られている。どうすりゃいいんだ、(だから、知らないって言ってるでしょ。心理学者じゃないんだから)だからさぁ、・・・・・・おまえ、おめかしして、これからどこへ行くんだ、(おじさんには関係ないよ)なぁ、俺の手、握ってくれよ(いやよ)手くらい、いいだろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(木戸佑兒) |
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求められているのは:進行の中の裂け目、同一のものの再来の中の他者、 言葉なきテキストのなかの吃り、永遠のなかの穴、 ひょっとしたら救済となるかもしれない失敗 |
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| 東京(n−1)【とうきょうエヌマイワン】 プロフィール 俳優、ミュージシャン、漫画家、小説家、能の研究者、映画学校生徒、ボイスヒーラー、もちろん会社員等さまざまなジャンルのものが集まり、今年4月に発足。寄り合い所帯の、単なる加算的な発想を排し、むしろ欠損の不安を創造のばねに、日々騒々しく何かを求め、あるときは街頭に出て自らの身体を実験台とし、そしていま、産みの苦しみを味わっている。 |
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| 東京(n−1) 『画の描写』 演出・構成 木戸 佑兒 出演 石川 靖子 小田 幸子 清野 元章 武富 健治 山田 零 音楽 角田 憲亮 映像 鈴木 秀敏 照明 椎名 正 美術 武富 健治 制作 古賀 良子 和田 裕子 アドバイザー 奥井奈緒子 小嶋 K子 福井 勝也 和田 義光 協力 和田スタジオ 主宰者 「生活のなかから演劇をつくる」 NPO法人U企画 |
麻布die pratze 港区東麻布1-26-6-2F 03-5545-1385(水曜除く18:00〜23:00) 大江戸線 赤羽橋駅 赤羽橋口徒歩0分 三田線 芝公園駅 A4出口徒歩6分 南北線 麻布十番駅 3番出口徒歩8分 日比谷線 神谷町駅 2番出口徒歩10分 |
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| 高画像版 |
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*上演全体に感関する部分は濃赤色で示してあります。 |
| いかったっす 投稿者:n_kuma 投稿日:12月16日(火)22時19分19秒 お疲れさまでした、主人。また、楽しい演劇を見せてくれてありがとうございました。主人の発声がとても良かったですよ。「あっ」のお兄さんも、左右の手の連動が良くて良かったです。ボクシングでもしている人? わたしは、わからないものはほとんど楽しいんです。 「画の描写」よかったっす。テクストが抜群にいいんですね、たぶん。たぶんというのは、どこまでがテクストで、どこからが演出挿入されたものかわからないから。私が演劇を今まで見たことないから。 画にむきあうと、画をつかもうとして、際限なく言葉が生み出され続けることがあります。際限なく出るのは、けして言葉では画をつかみきることが出来ないからで、画と生み出され続ける言葉には、本質的に乖離があるからでしょう。テクストは、この乖離を含んで提示されていると思いました。一方、書かれた言葉としてのテクストと俳優によって演じられる言葉にも乖離があって、おそらく一般的には演劇の努力の大きな部分は、この乖離を消滅さえようというところに注がれるのかと考えました。テクストの深い意味を表現するという方向性ですね。木戸さんの演出した「画の描写」にはこの努力が見られませんでした。その結果、演劇の効果が「画」そのものに回帰したように思いました。図式的にいえば、1×−1(画に対する言葉の乖離)×−1(言葉に対する演劇の乖離)=1(画)ということでしょうか。演じられる演劇空間とはまったく別に「画」そのものが、「画」に向かい言葉を探しあぐねている人を通し、その言葉を演じる人をとおして明瞭にイメージできました。このことが、私にはほんとに驚きでした。いやほんとにぶったまげてしまったのでした。 役者さんの言葉を借りれば、気持ちよく演じてた、ということでしたが、あえて三層間の意味的統一を求めなかったことによって、つまり、深い解釈、深読みをしないことによって、このテキストの持つ意図(あくまでも私の受け取った印象)を実現してしまったのではないでしょうか。気持ちよく演じれば、このような効果を生み出すテキストである、ということなのではないでしょうか? 初日の司会の方のいわれていた乖離の問題、乖離を巡る劇団側と司会者の乖離も、このことに帰着するのでは、と思いました。役者さんは気持ちよく演じた、結果として乖離が生じた。司会者はそれに対して批評しようとした。だけど役者はそんなことは意図していなかった。 最後に、死の描写があるから死を描いているのではなく、「画」に言葉で対峙するということのうちに、「死」に言葉で対峙しようとする表現者の姿を見ているのだと思いました。 |
| 描写の描写 投稿者:有容赦 投稿日:12月16日(火)13時10分59秒 胡蝶社主人。さん&Cogito−kさん: お疲れ様でした。 はっきり言って、殆ど意味がわかんなかったのですが、とにかく、胡蝶社主人。さん自身は、お世辞ではなく、カッコイイなあ、と思っておおいに感心しました。 |