武富健治 評論・エッセイ・議論・発言集

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 このページでは、これまでに武富健治が各同人誌などに書いてきた評論・エッセイや、他の掲示板に書き込んだ発言などの一部を保存いたしました。

 作者の活動の第一は漫画作品であり、第二は実人生における行動・生き様そのものですが、この第二の中の一部分として、発言もまた重要ではないかと考え、公表することにした次第です。

 楽しんでいただけたら幸いです。

胡蝶社主人  

評論・エッセイの部
他BBSでの発言の部

〜学生時代に「きらいな食べ物」のお題をいただいて勢いで書いた伝説の(?)半マジ半ギャグ手書きエッセイを今回初めて活字化!〜

武富健治の一夜漬けエッセイ

ぬか漬けはあんまり得意でない。

*おことわり 題と内容が一致してない場合がありんす。ご了承下さい。

左ひじついて肩入れて前かがみでカレーライスを食べる姿、最近そのワイルドな魅力をやっとこさ心から認められるようになってきた。

基本的にキライな食べ物ってない。

というよりキライと同時に、しかもそのキライな要素がボクをそそってしまうことが多くって、わかりやすい例だとフランスのブルーチ〜ズとか安料理屋のチ〜プでくどくどの使い古しの油で揚げたコロッケやフライ。逆に下品な個性モドキの自己主張をしない、当たり前の、言ってしまえば退屈な食べ物は、それゆえに「好きだ!」と思わずこのムネに抱きしめてしまいたい程。

幼児体験やトラウマみたいなのはたいしたのなくってたいてい克服して、今は「全部」スキなわけでもないし時にはパスしたいのもあるけど、友達みたいなもんだ。

むしろ自分で食べるのじゃなくて「キライ」な食べ物ってあるよ、人が食べてるの見るのがあんまり好きでないのはね。なんか今の日本、マナーの基準はっきりしなくてツライ。一時期新聞のTVへの投書欄に「外人(黒人)野球選手が口開けてガム食べてるアップは見苦しいから映すな」という声が相次いで…ってことがあって、ボクは狂喜してた。

ひじついて食べるのってダメなんじゃないの?

考えるとつらいから時々大衆酒場で飲む時に限るけどわざとやってみることもある。最近では学食やファーストフード店では気になってしまう自分が悪いと考えておし殺すことにしてる。冒頭で言ったように、食べ物によってはそう食べる故に「スキ」と思える感覚も生まれてきたんだ。

しかし意外な落とし穴がある。ひじついてたべるのとか、はしの使い方、

あと「くちゃかみ」 (*このような呼び名があることは上村一夫の昔の短編集の中で知った。 貧し目の中流家庭の夕食でサラリーマンのお父さんが子供に「おい、くちゃかみはよせ」と注意するシーンがあるのだが、このマンガ他の部分の内容忘れちゃったけどなんともやりきれない読後感のものだったことだけ頭に残っている。) などはけっこう多くの人が気にしているし、してる人も、自覚して、これは高級店ではしてはいけないが飲み屋や学食ではしてもいいのだ、てな感じでやってるみたい。

しかし左手を下ろして食べることはあんまり話題で出ない。そこそこ守ってる人も多いからしつけとしてそれほど特別マイナーなものでもないのだろう。「面食いショウの孤独(作品一覧、習作ページ参照)」の受賞直後、バイト先の女性と付き合ってみることにした時があるが初デートでそれかまされて、向こうもどうでもよかったらしく自然消滅したことがある。その後そのことを反省して、気になることは言うべきだと思い、その左手下ろし食事マナーをネタにハッピーエンドなラヴ物のコンテをきったがアフタヌーンの生島ヒロシに一笑にふされた。(共感を呼ばないからダメ、ということで、構成などの技術面の指摘すらしてくれなかった)。

…………  

手を下ろして食べることについてはここまでにして、めん類の食べ方について、書こう。…というより問いたい。

ぼくはこれに関してはそれほど気にならない方だが、一応スパゲッティなどの西洋ものは向こうの習慣にしたがって「すすって食べてはいけない」と聞いている。うどん、そばは日本文化で、お茶、味噌汁は「すする」のが正しく、それらも同じ理由からむしろすすって食べるのが「おいしそう」な印象を与えるのでパスタ風にすすらずに食べるの「よりも」良い、というのが今ンとこの情報だ。しかし「老舗ではなくて上品な」うどん、そば屋では、そこの大半の席を占める若い女性に合わせて音を立てずについ食べちゃう。そういう感じです。

「キライな食べ物」で書けゆうとるのに「キライな食べ方」の話書いてしょーもないな、と思われるのでちゃんとつなげておこう。つまり……

うどん、そば(ラーメンも)、そして高級料理店の料理、学食などの軽食などはこのマナー論を必ず思い浮かばせて食事をマズくするのでキライ、というわけだ。ボクが守ってないマナーあったら教えて。知らずに人を不快にさせてるかと思うとゾッとする。食事時に下品な話題するのはワザとやっている。あれはぼくの俗物性そのものであるのも事実だが、知らずに我々を悩ませている方々へのせめてもの報復なのかもしれない。ああいう話題はガマンしようと思えばできるのだし。 おわり。

ごちそうさまでした!

シテ おそまつでした。

*当時の手書きの雰囲気が少しでもつたわるよう、挿絵(当時のまま)を添付しておきます。

*活字に直してしまうとわかりにくい箇所などは多少わかりやすいように変更、調整してあります。

ドストエフスキー好きーのページ での発言

*下から順に読んで下さい。   

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成人は1回2錠、未成年(16才以上)は1回1錠、15歳未満は服用しないで下さい。

  胡蝶社主人。 02年06月04日23時28分

内容的に下の続きになりますが、ちょっと前に亡命旅行者さんが書き込んでおられた、

>過去私にとって

三島由紀夫と太宰治は最も嫌いな作家の中にありました。

「両者がその創造した物と影響を与えたもの」を芸術学と言う観点から見て両者が傑出した人間であることを認めます。

ただ、

太宰治については、

自我が完全に確立していない人が読むと、現れているものが現在置かれている状況と類似している点が同一であると無意識下で誤認識してしまう。

社会的には例えば、引き篭もり、自傷、自殺であるとか、殺人を引き起こす可能性を認める。

以上において私は、自我が「完全に確立していない人が読むことにおいて」危険性を認めます。

三島由紀夫については、

彼の超越的な人間像を自分の存在と照らし合わせる意味において、

三島が愛したヒットラーであるとか、まぁ、そういった「超越」したものにたいする、恐れ、敬意、服従、と言った現象を生み出し得る可能性を私は認めます。

>太宰治はまぁ、

あんまり読まないで欲しいです。


ということも、ある意味においては正しさがあると思いました。芸術作品はどうしても『薬効』という側面があるので、まだ体の出来ていない人やたいして病気が重くない人が強い薬を使うのは危険です。ただ芸術の精神作用というのは、肉体の問題以上に年齢的な個人差が激しいので、安直に「〜歳以上」と表示できないのが難しいところですね。

またこれは教育で言う『レディネス』そのものだと思いますが、ということは、単に『早すぎる』ことだけが気をつけるべき問題ではなく、逆によい時期を逃さないことも重要になってきます。文学・芸術はわりといつ出会っても遅くない、という場合も多くありますが、時には「あのころ出合っていれば…」というような深い後悔、また極端な場合ではいい時期に出会えなかったためにとりかえしのつかないことになる場合もあるようです。偶然出会えなかった場合はもう仕方ないわけですが、誰かに強制的に機会を奪われたり伸ばされたりした場合の加害者・被害者の不幸は目も当てられません。そういう意味でも、この問題はこうしておけば間違いない、というルールの雛型がないだけに難しい問題ですね。下に書いた、治療と社会復帰をあきらめてホスピスに切り替えるかどうかも同じように難しいし、また、治療のための芸術が、ホスピスとして作用してしまうことも作家にはある程度以上手におえない問題です。

 現代日本の代表的なアニメ作家である宮崎駿氏(もののけ姫)や富野由悠季氏(ガンダム)は、これらの問題に深く苦悩し続けてきたようです。現実の深い問題を、多くの人(子供たち)に味わい、素晴らしい成長を遂げてもらいたいと祈って盛り込んで作ってきた自作が、逆に子供や若者に対し現実からの逃避を助けたり衝撃を与えすぎて心に傷を負わせたりして、彼らのうちのかなり大量の人々がこれだけは避けて欲しいと思っていた大人に成長していった事実があるからです。

 ぼくは、芸術家(発信者)には影響に対する深い注意力と覚悟が必要だと思うと同時に、受け手もまた、感謝し尊敬する作家に恥をかかせず罪を感じさせないような実人生を送ろうとする意志と智慧が必要ではないかと考えています。

来てそうそう大量に書き過ぎですね…すみません(笑)。




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芸術が人を救う。

  胡蝶社主人。 02年06月04日22時19分

>ぱふぽとりさん 

 確かに、ある種の人、あるいは人の中のある種の問題を、芸術は救ってくれることが多くあります。ぱふぽとりさんが、

>『芸術』しか『人間』を救えない。

>芸術家しか 『人間』を 救えない。とも 思っています。

と書かれるのは、ぱふぽとりさんが、そのある種の人、あるいはある種の問題を最大の問題としている人だからでしょう。

 人が人を救う営みは、医学に譬えられると思います。

内科の医者は、外科が必要な大怪我を救うことはできません。

それぞれはそれぞれの分野の得意で、それが救い得る人しか救えないでしょう。

わざわざ内科に譬えるまでもなく、芸術ははっきりと、「精神・神経科」「心療内科」にあたるものですね。

 ただ、芸術が救える『ある種のもの』というのも、治療を助けたり、あるいは予防を助けたりすることもある程度まではできますが、せっかく病んだものを治したり、病みそうになるのを留めたりしても、やはり生身の生活・現実の世界がひどすぎれば、どうにもすることができません。投薬と同様、芸術は耐性をもたらしますから、それにたよることはとても危険です。どんどん強い薬を大量に投与されなければ効かなくなってしまうのです。だからこそ、古来真剣な芸術作品は(つまり作家は)、実は芸術とは対極にある「世直し」的な思想・アジテーションを作品に混ぜこまねば気が済まなかったのでしょう。また、芸術が医学に譬えられるということは、東洋医学と西洋医学の観点もまた芸術に語り得ることではないかと思います。ぼくはわりと西洋医学の価値や効果を重視していますが、東洋医学の手法・考え方もまた大切かと思います。東洋医学でよく言われることは本人の自然治癒力を活性化させるのが治療だ、ということです。文学や芸術にも、そういう観点や手法が多くの作品に織り込まれています。また、東洋医学では、表れた病状の部分を平常に治すのではなく、その根源を探り、元をただす、ということが重大なコンセプトになっていますが、これも芸術に関係があるでしょう。ぼくはこの問題をぼくなりに考えた結果、現代で目立っている不幸に目をやってそれを描ききることよりも、それと密接につながった地味な日常の問題をとりあげるようにしています。しかし方法は他にもいろいろあるでしょうね。この東洋医学の譬えを、そのままその前に出した投薬の譬えとつなげると、芸術は、ある意味、いかに読んでいる人の心を揺さぶり感動させるか、本人が『救われた!」と強く実感できるような効果をもたらすことができるか、という目先の問題だけでその価値を論じることが難しいものかも知れません。麻薬のようなものでもあるわけですね。本人がどんなにそれに救われているつもりで作家や作者に感謝していても、ますますどんどん不幸にしている芸術もあると思います。芸術家は、お金や地位だけではなく、読者に熱烈に感謝されありがたがられることへの魅力にも、注意深く、辛抱強く身を、筆を留めなくてはなりません。

 また、これはこの間Seigoさんへの書き込みに書いたことの続きとなりますが、その人が芸術家であるかどうかは、100年経ってみたあとでないとわからない、というくらい、判別が難しいことだと思います。ぼくなどは、『芸術』という言葉を、やや観念的にとらえていますので、様々の手段や様式にのっとって人の手で作られた「作品」だけを芸術とは思いません。したがって、作品を作る人だけを芸術家とは呼びません。どちらかというと「作品」や「作品を通じる」ことは、何かの代用だと思うのです。何かとは、何であれ、現実にあるものだと思います。それが手に入らない人が、芸術を必要としているのでしょう。それはしかたのない現実ですが、すっかり諦めきらずに、現実のものに期待し、また自分も生身で期待に応えることができる人間に少しでも近づけるように意地をはって努力し工夫することは、とりあえず芸術で心を慰めて傷を癒したりする一方で、どうしても必要なことではないかとぼくは思っています(意地になって思うようにしています)。生身の芸術家として、現実の世界で芸術を施す、これは芸術家が芸術作品を通じて芸術を施すのと同様、人を救うと思います。いちばん簡単な譬えとしては、紙に書かれた理想の異性より、多少劣っても現実に自分一人を愛してくれる生身の異性がいた方が救いになることはありますよね。そういうことです。

ただ、「ある種の問題」で重症な人というのは、現実のささやかで本来求めているものの代用でしかない幸せでは、救いにならなくなっている人が多くいます。生身の贋物より、本物の写真のほうがましだというような場合です。そんな人の中にも、当面は芸術作品の助けを借りつつ生き続けて、そのうちに努力や運で、代用ではない幸せ(救い)を得る人も多くいますので、あきらめてはいかんのですが、やはり一生涯、『完全な救い』に囚われたまま生きていく人も少なからずいるでしょう。医学と同様、不治の病というものがあると思います。そういう人に対しては、現実への復帰を促す苦痛を与え続けるよりも、痛みをとってやり、最後までその人につきそってあたたかく見取る、という芸術も必要なのかもしれません。これは医学で言うと「ホスピス」ですね。悲しいことですが、これもまた作品を作る芸術家の仕事の一つかもしれません。



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スターバト・マーテル

  胡蝶社主人。   02年06月04日21時01分

>イーハトーブさん

 初めまして。HNに「。」がついているのは、確かにご洞察の通りです。しばらく前に、うちのBBSで、HN占いというのが流行りまして、HN占いのサイトで字画を観てみたら、あまりよくないので字画を整えるためになんらかの処置をした方がいいという。いくつか提示されていた案の中に、「。」をつける、というのがあったので、それを採用したのです。ぼくの作風はちょっと硬めで「モー娘。」などはこの人きらいじゃなかろうかというようなイメージがややある中、実はミーハーだったりもする、ということもあり、また、そういったイメージ崩しが好きなんです。イタズラっ気も手伝って、それ以来「。」をつけることにしています。

>商業主義的でないという意味では、つげ氏系(そういう括り方もないのかもしれませんが。。)なのでしょうか。

 確かに大きく分ければそれに近いと思います。どちらかというと、シュールになる前の叙情的な劇画だったころの方が近いと思います。漫画は20世紀(現代)になってから生まれ育ったわりと新しい表現形式ですが、生まれた時既に、兄である文学や絵画、映画などはだいたいの可能性を模索しつくしてシュールに行っていたんですよね。大きなお兄ちゃんがいる弟のように、漫画はあまり熟しない幼いうちから兄達の流行に飛び込んでしまった。それで漫画で骨があるマイナーなものというと、どうしてもシュールが多くなってしまうんですが、ぼくは漫画が飛ばしてしまった進化の可能性というのを拾いたくて、基本的には近代文学的なアプローチをとっています。それで、ガロからは真面目で重すぎる、と拒否されてしまいました。今のガロは、それこそつげさんなんかが血みどろで編み出した『昔の前衛』のリサイクル・デッドコピー本になっていて、末梢神経的な刺激が先行して本当の冒険はあまりなされていないので、役にたちたかったのですが…。まだ普通の商業誌の方がたまにでも拾って載せてくれるだけ、近いのかもしれません。でも、作品によってはかなり刺激的なシュールなものもあります。

 子供の頃ご覧になられていたアニメはどんなものですか? ぼくは漫画とアニメ、それぞれから影響を受けています。

 さて、この間から見ていて話題に入りたかったのですが、ぼくも古楽ファンで、特にスターバト・マーテル(ペルゴレージ作)は大好きです。ぼくの持っているのはホグウッドという人が指揮している古楽の当時の楽器や演奏・歌唱法を再現しようとしたディスクです。ぼくが古楽を特に好むのは、ロマン派以降のいわゆる交響曲やオペラといった形式が、日によっては少々刺激が強すぎて愛しきれないところからきていまして、だからこそ、古楽でも、巨大なホールで大勢の群集に訴えることができるように強化された演出法や解釈で演奏されたものより、古楽演奏法にのっとりささやかに演奏されたものの方がより深く心に入ってきます。この古い演奏法はひなびた感じであたたかく悲しいのが特徴ですが、この演奏法自体、しばらく前に流行してしまいまして、そのあたたかさが今度はやたらとかんばんになるようになってしまい、実際の演奏も、そのあたたかさ素朴さを強調したものも多く出ています。その中でホグウッドはさらりと清潔に演奏しているので、とてもバランスがいいように思います。ただぼくも日によって趣味が少しずつ違うので、あでやか目の演奏が聞きたい日もありますし、男らしい堂々とした演出のものを聴きたい日ももちろんあります。ホグウッドがややさびしい・つまらないと思うこともあるんですよね。イーハトーブさんのところのはどなたの演奏ですか?

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よろしくお願いします。

  胡蝶社主人。   02年06月04日00時41分

>seigoさん あらためまして、これからよろしくお願い致します。これまでも興味のある話題が何度も展開していたのに指をくわえていたので(時には自分のBBSにそのことを書いたことも…)、きっとこれからはちょくちょく参加させていただくことになると思います。

 漫画や発言をチェックしていただいていたとのこと、光栄です。作風に関しては、ぼくはもちろん漫画を深く愛する人の期待に十二分に応えられるように意識して作っていますが、同時に、いわゆる普通の(特にここ20年くらいの間に形成されたメジャー)漫画の匂いが嫌いだったり、物足りなくて『卒業』してしまったりしている方々にも楽しんでいただけるように気を配っています。今は漫画は細分化・蛸壺化しており、こういう意識は商業作家としての成功にはとてもじゃまになるものでもあるのですが…。しかしこうしてお褒めの言葉をいただけると、ほんとうに励みになります。まさにパンのみで生きるにあらず、ですね。

 単なる趣味、とのことですが、文芸や芸術は、結果として世の中の人の心の深い部分に作品が届き支持されるかどうかが重要ですから、職業とするか、趣味とするかは、100年後は全く関係ないと思います。ぼくが好きな児童文学関係では、老後に孫に読ませるためだけに書き始めた、なんて人の作品がしっかり世に残って、時代を超えてぼくなどの心を震わせていたりしますし…。満を持しての作家活動、楽しみにしています。

 没落氏の筆力と薀蓄には、ぼくも相当に舌を巻いています。ちょうど数年会わないでいる間に、能力・底力がえらくレベルアップしていて…それにはこのBBSでの活動も重大な経験となって働いているのではないでしょうか。

>ぱふぽとりさん いやぼくもまだ半ばあこがれている段階で、本物の芸術家がどんな自由な境地なのかはよくわかりません(笑)。ただ、現在の平均的な漫画家やアニメ作家という職業は、トルストイが『芸術とはなんであるか』でさんざん罵倒しているタイプの、過剰に製作者に不自由・奴隷的労働を要求する過酷な職業で、精神的にはどうかわかりませんが、むしろ自由とは程遠いもののように映ります。ぼくは、こちらのこだわりのせいか、それとも向こう(消費者や出版社)の判断のせいか、その両方からか、売れていませんのでわりとある意味『自由』な生活をしていますけど(笑)。こんなの嫌です。早く不自由になりたいです(笑)。

>世界=自分自身 なんでしょうか?

これは、ふたつの意味にとれるのですけど。こないだの不法集会での発言第1位になった没落氏の「おれが日本だ!」と同じようなニュアンスで、「おれが世界だ!おれが世界の中心だ!」という意識をさしたもの、と、もう一つは、世界の果ての肉眼では見えないような痛みまで、まるで自分の指先の痛みのように感じる、というニュアンスのもの。どちらでしょうか? 実はいずれにしても、そういう自覚はあります。どちらもちょっと奢ってますね。 その反省もありつつ、やはり否定できないといった感じでしょうか。でもこういうものは、作品を作らなくても『魂が芸術家』の人なら多かれ少なかれお持ちの感覚ではないでしょうか。そういう意味では作品より伝記の方が面白い作家というのは(実際にいますが)憧れです。

>世界=自分自身を 発言 表象していて、せざるを 得なくて すなわち、仕事になった?

というところは、確かにそういうところがあるかもしれません。今までのところ、「〜年がんばってだめだったら」というように、別の選択肢を真剣に考えたことは一度もありません。(深刻に、許されず叶わぬ夢としてあこがれたことは何度もありますが)。答えになっているでしょうか?

そういえば、最近オーディオ談義が展開してましたよね。僕自身はハードにはそれほど詳しくないのですが、おたくの師匠が友人にいて、その彼がいいのに買い換える度にオーディオやAVのいい機材を安く売ってくれたので、お金も知識もないわりにはうちもいいものが揃ってきています。確かに音は、アンプやスピーカーで全然違いますね。別の友人などは「武富の家で聴くと家のコンポでは聞こえない音まで聴こえる」と言って来るたびに自分のCDを持ってきます。ぼく自身はソフト(作品)に関してはややおたくなのを認めねばなるまいという感じで、DVDチェックやプラモ・フィギュアなどのチェックに、秋葉原詣ではここ数年、平均月に数度くらいの感じで恒例化しています。

>威王さん このあいだはどうも。ロシアはさすがに難しいので、御茶ノ水〜神保町あたりで今度は飲みますか? 建物やレストランなど多少はロシアくさいものが楽しめるのでは?

なお、ぼくのこの間の集会についての各メンバーさんに対する感想は、没落氏の書き込みとかなり酷似しているかもしれません。生保レディ合コンに期待(笑)。

…ドストエフスキーや他の文学者についてのことなど、落ち着いたら機会を見て書きますね。今日はこれにて…。

http://www.oxna.net

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はじめまして。

  胡蝶社主人。   02年06月03日00時39分

 没落貴族君の大学の時からの友人で、こちらとしては『数少ない同志』、また時々はお互い譲れない論を戦わすライバルでもあると思っている、武富健治というものです。全く売れていませんが、数年前に短編で一応商業誌デビューをして以来、時々短編を発表し『漫画家』を名乗っています。ここでも話題にしていただいたことがあり、うれしかったです。

 しばらく中絶していた彼とのやりとりが昨年秋に復活した後にこのHP及びBBSの存在を教えてもらいまして、以後読み手としてはまめにチェックしてきました。またこれまでに没落氏の紹介でここのご常連の何人かの方がうちのBBSにも遊びにきていただいたり、またうちのBBSからもこちらに参入されている方もいたりしながら、ぼく自身といえば、自身のBBSの運営で手がいっぱいだったのと、なんかかっこよく登場をキメなくてはという気負いで、なかなかご挨拶できないままになっていました。

 前々会のドスト会の没落氏の発表の時に、カメラ係として参加し、打ち上げでも楽しくおしゃべりさせていただきましたが、その後もなにか気後れをしてしまって書き込む機会を逃してしまって…。

 昨夜は、参加するかどうか直前まで迷っていたので没落氏にすら全く連絡していなかったのですが、「ガチンコ文学道・お前ら俺の弟子やったらパンパンやで! この後、信じられない光景が!!」に途中から飛び入り参加させていただきました。参加しようかな、と思い始めた頃から、また参入してしばらくは、外部者だし控えめにはじっこで聴きに徹しようなどと思っていたのですが、みなさんがあたたかく迎えてくれたこと、またあのお店のあの席の放つ魔力、そしてみなさんの雰囲気にすっかりうちとけてしまいました。とても楽しかったです。

 それで今度こそ機会を逃すまい、と決意しまして、この書き込みに及んだ次第であります。一応HNは今後もうちのBBSと同じ「胡蝶社主人。」に統一させていただきますが、なにせ本名で作家活動していますので名前の方でで読んでいただいても全くかまいません。よろしくお願いいたします。

 今日はとりあえず自己紹介とご挨拶のみで失礼します。また昨夜のことなども含め、書き込みさせていただきます。

 没落氏が紹介してくれているようですが、一応ぼくからも自分のところのHPのURL書かせていただきます。自作漫画の代表作が全編公開してありますので、ちょっと重いですけれども是非ご覧下さい。また上に書きましたように、特にこの春くらいからはうちのBBS(新BBS)は、まるでこちらの裏BBSのような様相を呈している時もあるくらい、ご存知の方々がこちらなりのテーマで様々なやりとりをしていますので、そちらの方も興味がありましたらご覧になってみて下さい。没落氏ファンの方は昨年末くらいから「パリサイ人」で検索してもらえると彼の書き込みが楽しめます。

http://www.oxna.net

>もろちょんさん やっぱり朝までだったんですね。終電で帰ったものの、結局ぼくも寝つかれず朝までほのかに興奮が続いていました(笑)。あの会、あとに引くパワーがあったみたいですね。ぼくの発言を2位に挙げていただいて光栄です。確かにぼくとしてもあそこが一番はじけた箇所だったと思います。Cogitoさんの巧みな誘導で、思わず本性を出してしまいました(勝手に自爆しただけですね 笑)。稲川淳二と同じ誕生日のぼくとしましては、喜んでいただけてたいへんうれしいです。

ドストエフスキー好きーのページ(のBBS) での発言

*下から上に更新してありますので、順を追って読みたい方は下から読んで下さい。

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