ようやく念願のマイノリティーリポート鑑賞。
やはり劇場で観るべきだった。大変満足度高し。
しかし「高い」ということは、最高ではないということで、いくつかキズはある。
まず、これは見終わってから気付いたことだが、ものを知らないぼくは知らなかったが、これ、ディックの原作なのね。
スピルバーグ、やるなあ、と感心していたことの下手すると6〜7割は、原作の手柄、ということも考えられる。なにせ話が気に入ったので、原作、チェックしたいかも。
そしてこれは、もしかすると、長所と同じように、原作のキズなのかもしれないが、一番気になったこと、それは、テーマとその処理に関わることなのだが、
未来における、犯罪を予知して事前に犯人を逮捕することの「是非」という観点について、
これは、途中くらいから、ああこういうことが言いたくてこういう風に持っていくんだな、ということがおおよそ知れたので、これまた気になるのだが、
システム、というよりそれを使う人間側に常に問題がある、というあたりはいい。
しかし、問題があるから、じゃあこのシステムを肯定するか否定するか(つまり実際に使用していくべきか否か)という問題の提起が、今書いた通りさてどちらかの二元論で、中間の選択肢を全く無視しているのが気になる。
なぜ途中から気になってしまったかというと、途中で、犯罪予知システムの要である特殊な人間が3人いて、そのうち1人の予知が違う場合がある、なんて設定が前面に出てくるからだ。
最初から、このシステムには欠陥があるかないかということが、システム本格採用に向けての重大な疑問として提示されているのだから、この流れでいけば、
「もし3人のうちに1人でも異なる予知をする者がいれば、その場合は犯人検挙は留保する」
「念のため、犯罪の起こる時間にその場所に待機するまでは、しておいて、その上で状況を見る」
という折衷案が出てくるはずだと、思ってしまう。
結局「システムに問題がある」という大雑把な発見と、上層部の人間の過去に問題があったという事情から、まったくあっさりとキモチヨク、そのシステムはバッサリ撤廃になってめでたしめでたし、ということになってしまうのだが、相当このあたりは後味が悪い。
なにせそのシステムの発見によって試用期間に、救われた人の数は数知れず、また社会的にも相当に貢献しているのだ。
しかも上に書いたように、そのシステムに生じることのある問題は、どうも十二分に改良の余地があるように見えてしまう。
このあたりの不審は予期していたのか、このシステムは撤廃すべきだという印象を視聴者に強めるためにか、システムに使われる特殊な人間の人道的な権利問題をからめてあり、ラストでもそこが強調されている。
要するに、マシンの一部となって精神的な苦痛を浴び続ける3人の特殊能力者が、奴隷的な使役から開放されて、静かに余生を過すというシアワセなシーンがラストシーンなのだが、これもどうかと思う。
確かに、ぼくも、平気で彼らをマシン化して使用するのはどうかと思うが、彼らがまともな日常生活を続けることが出来るのか、という問題も絡め、
仕事として(これは職業として、という意味もあれば、使命として、という重い意味もある)彼らにシステムの一部となってもらうというのは、それほど抵抗のあることではない。
特殊な、過度に心労の加わる職業というのは、国家運営的なものでも、また芸術関係でも、医療関係でも、存在しているわけだし、
どうも、処理が甘い気がしてならない。
当然、だってスピルバーグなんだから、と言われてしまえばそこまでなのだが、こないだの『A.I.』あたりから、どうも、マジなところに入り込んで、マジな作りで攻めてくるから、
ついそのつもりになってマジで観てしまうのだ。
なにしろ、これだけ文句並べても、「キズ」に過ぎないというのだから、全くここに触れなくても、この作品がいかに面白いか、またいいところがどれだけあるかは解ってもらえるかと思う。(思えるかよ…)。
で、その後に、ほんとにツイデに借りてきた、「デモンズ’95」を観たのだが、
これはダリオ・アルジェントの弟子ミケーレ・ソアビの監督作。
直感的センスとバカパワーが売りの巨匠アルジェント、このバカさにあこがれて、バカになろうと一生懸命な秀才君、というのがソアビの印象だが、それゆえ彼の監督作は、ダリオに及ばない中途半端な駄作が多いという印象があった。
まあこれもそのひとつと映る人もいるだろうが、ぼくは違った。
今書いたような彼のこれまでの特徴が、秀才としての居直り一つで、全て魅力に転じていた。
ダリオが天然でやっていることを、力技で意識的にやり抜いていて、これまでは中途半端さにつながっていた彼のセンスのよさが、素直にキラキラと随所にきらめいている。
20回ほど大笑いしたし、10回ほどかっこいい映像処理(特撮どうこうではなく、構図やカメラの使い方。演出、ですね)にしびれあがった。
主演の俳優も、ドンピシャで素晴らしい。ドッチラケか置いてけぼり、ギリギリの脚本だが、それに説得力を持たせているのは彼の功績でもあるだろう。
退屈、虚無、屈辱、寂しさ、そこから湧き上がる狂気と怒り、
そして捨てきれない人の温かさへの憧憬、こうしたものがとてもよく描かれている。
なにせ、こう書いても、全くぴんと来ないだろうから、この作品に関しては、あらすじを別サイトから持ってきたのでコピーしておきます。これを読めば、いわゆるこれまでのB級ホラーゾンビものとは違うことが解るはず。
そうね、感触で近いのは「ヘルレイザー」かな。
あらすじ
北イタリアの小さな村バッファロラで、墓地管理人を務めるフランチェスコ・デラモルテ(ルパート・エヴェレット)は、人里離れたこの地で、毎日の仕事をこなすのが生き甲斐となっている。彼の唯一の友人で仕事の手伝いをしてくれるナギ(フランソワ・ハジー・ラザロ)は足が不自由で、おまけに容姿が悪い唖の小男だったが、優しい性格はフランチェスコの孤独を時として癒してくれていた。そんな平穏なある日、突如、不思議な疫病の影響か、墓に眠っていた死者たちが蘇るという事態が発生。フランチェスコは死人の群れと戦うが、周囲の人々は彼の作り話にすぎないと誰も相手にしない。毎夜、ゾンビとの戦いに明け暮れる彼の前に、ミステリアスな女(アンナ・ファルチ)が現われる。理想の女性像を見い出した彼は女に恋心を抱くが、彼女はゾンビの餌食となり、生ける死者の仲間入りをする。終わりのないゾンビの襲撃に、精神を侵され始めたフランチェスコに「生ある者を殺せ」と、死の声が毎夜囁く。そして死んだ女と瓜二つの女が、次々に彼の前に姿を現わす。死の世界からの誘惑に負けそうになったフランチェスコには、生者の世界もまた煩わしいものだった。彼は、ナギと共に村を去る決意をする。フランチェスコは、生と死について限りない自問自答を繰り返すのだった。
そんな感じで、記念すべき第一回、右馬之佐異界行覚書、これにて終了。
日記じゃないので、時々の更新となるけれど、ここに書いた時には、掲示板にもその旨だけは書いておくようにします。
よかったら気兼ねなく、掲示板の方に感想や関連の書き込み、してください。
これからもよろしくね!
|